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ご照会:厚生労働省社会・援護局 援護企画課外事室より

旧ソ連抑留中、ウラン・ウデとタシケントの蒸気機関車工場で強制労働に従事された画家の『ホンダ』氏またはご親族、お知り合いの方を探しています。お心当たりの方ご連絡ください。
ウズベキスタン人マラト・ノシロフ氏より元日本人抑留者『ホンダ』氏が描いたと思われる、下記の「絵画3点」を作者または親族に返還したい旨外務省を通じて依頼がありました。

2匹のボルゾイ犬を連れた中国服の女性(油絵)

キャンバス左下に記された署名と年号

キリル文字で、『ホンダ』1948年

ヴィクトル・ヴァスネツォフ『アリョーヌシカ』1881年の複製画(油絵)

イヴァン・シーシキン『松林の朝』1887年の複製画(油絵)

現地通信社『フェルガナ・ニュース』ホームページの記事(拙訳)

第二次世界大戦終戦後、ウランウデ市機関車修理工場に、旧帝国陸軍(関東軍)の元兵士・軍人からなる日本人抑留者1236人が強制労働に従事させられていた。毎日14時間以上の労働を強いられていた。その中にホンダという者がいた。日出る国から来た職業画家は、ソ連抑留中であっても、自分の特技を生かした労働にありつくという幸運に恵まれていた。ウランウデ周辺からほぼ水平に延びる鉄道路は、軍用として破茶滅茶な徴用が行われていた。一日の労働ノルマは、完全修理エンジン3台と貨車・無蓋車20車輛という大変厳しいものであった。FD型(フェリクス・ジェルジンスキー型)、S型、SO型(セルゴ・オルジョニキーゼ型)、SU型、SOm型、O型、Ov型、各蒸気機関車は、必ず煙突とヘッドライトの下にソ連指導者の肖像画が掲げられ工場出荷となる。護送勤務のないホンダはこれらの肖像画製作の仕事も与えられた。常に変わることない、思いやりのある礼儀正しい、にこやかな日本人は、工場の上層部から職人、事務員に至るまで好かれていた。蒸気機関車の炭水車や無蓋車の上で、プルマン客車のデッキ、作業場内や鉄道の道床の上で、イーゼルとパレットを持ったホンダを見かけることができた。目撃証言によれば、ホンダは抑留期間中、約三百点の絵画を工場の作業員たちに残していったとされている。そしていずれのキャンバスにも左下角にキリル文字で、Хондаの署名と、年号1945年、1946年、1947年、1948年...と記されている。1949年に技師や職工の一団が「強化」という名目で「タシケント蒸気機関車貨車修理工場」に移動させられた。そしてホンダが書いた三枚の油絵―2枚はロシアの著名な画家(訳注:ヴィクトル・ヴァスネツォフ画「アリョーヌシカ」1881年とイヴァン・シーシキン画「松林の朝」1887年)の複製画。しかし三枚目は、二匹のボルゾイ犬を連れた中国服姿の日本人女性の肖像画―が個人コレクションとしてタシケントに残された。私は何とかしてこの画家を見つけたいのだが、実現可能であろうか?たぶん彼の身近な親族か友人が生存しているはずである。旧陸軍(関東軍)の名簿に軍人か芸術家として、あるいは、強制抑留者名簿に記録がないであろうか?ホンダさん、是非回答をお待ちしています。
タシケント在住 マラト・ノシロフ
一般財団法人全国強制抑留者協会
〒102-0073
東京都千代田区九段北1-8-2 九段第二勧業ビル2F
TEL.03-3261-6565
FAX.03-3261-6548
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